2011年10月24日

孤高のすすり泣き ブロウ・バイ・ブロウ

 ジェフ・ベックというロック・ギタリストはよく孤高のギタリストと呼ばれる。商業性に拘ることなく自分の信じるギターの道を歩んでいるところや、コンサートで見せる彼の風貌がどことなく群れから離れた狼のように見えるところがそう呼ばせるのだと思う。
 狼は夜になると小高い丘の上に駆け上り、そこで顎を上げて吠え声を響き渡らせる。それは恐怖を呼び覚ます吠え声のようにも、悲しいすすり泣きのようにも聞こえる。
 ジェフ・ベックがギターの求道者のように見られたのは、おそらくアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」からだろう。このアルバムはジェフ・ベックのギター人生とギターテクニックの真髄が込められていて、ジェフ・ベックにとってのみならずロックギター・ミュージックにとっての最高傑作と言ってもいいほどの優れた出来栄えになっている。

 アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」は発売当初日本語タイトルが「ギター殺人者の凱旋」とつけられた。随分大仰で物騒なタイトルだし、あまりうまいネーミングだとは思わないが、このアルバムの本質は掴んでいる。
 英語のblow by blowは「一打ずつ詳細に」というも意味がある。一打でさえも漏らさずに伝えるというような文脈で使われる。ボクシングのラジオ中継などで実況が一打でも手を抜かずに伝えるというような使い方だろう。
 ただ、このアルバムでは、慣用句として解釈するよりも、字面通りに解釈したほうがしっくり来る。次々と繰り出されるブロウ(パンチ)という意味で理解したい。ボクシングの試合におけるスタンディングでの打ち合いを想像していただいたらいいと思う。
 次々と繰り出されるパンチをそのまま浴び続けたら人は死んでしまう。このアルバムでは、ギター曲がそのように繰り出されて行くので、ジェフ・ベックはギター殺人者に喩えられる。

 ジェフ・ベック最大のヒットアルバムとなった「ブロウ・バイ・ブロウ」の成功の主だった要因は、プロデューサーにビートルズを大成功に導いたジョージ・マーティンを起用したことだろう。
 ジョージ・マーティンはクラシック音楽の正規の教育を受けていて、アレンジの引出しがとても多い。ビートルズが成功したのもその陰にはプロデューサーのジョージ・マーティンがいたからだと言われる。
 ビートルズがギターを弾きながら口ずさむ曲を原曲として、そこから発展させてまともな商用の曲にまで仕上げられたのはマーティンの力によるところが大きかった。また、ビートルズのほうも、クラシック音楽の素養のあるジョージ・マーティンから積極的に学び、単なる思いつきのメロディーをしっかりとした楽曲にまとめ上げていく術を学んだ。
 ジョージ・マ−ティンはクラシックの素養があるだけにストリングスのアレンジが実にうまい。ビートルズの有名なバラードであるイエスタディの成功は、マーティンのストリングス・アレンジの賜物と言っても言い過ぎではない。
 私はイエスタディのストリングス・アレンジは情緒に流され過ぎているのであまり好きではない。マーティンの優れたアレンジ能力が発揮されたのはエリナー・リグビーにおいてだと思っている。
 イエスタディと違ってエリナー・リグビーのストリングスには緊張感があり、メロディアスな曲を情緒に流されることなく引き締めている。エリナー・リグビーでは、ストリングスは単なる伴奏ではなく、ビートルズの歌・演奏と競い合い、ぶつかり合っている。それがとてもスリリングに聞こえる。それは、たとえば、クラシックの協奏曲やソナタのような作りに近い。

 ジョージ・マーティンがエリナー・リグビーで聞かせてくれた緊張感のあるストリングス・アレンジは、ジェフ・ベックのアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」でも施されている。
 それは2曲あり、一つがスキャッターブレインで、もう一つがダイヤモンドダストだ。
 スキャッターブレインは、ロックというよりはどことなくパガニーニのバイオリン独奏曲のギター版のような作りになっている。技巧の要求される速弾きが続き、アップテンポな曲であるにもかかわらず、どこか悲しい、あのバガニーニの曲を連想させる。
 スキャッターブレインでは、曲の盛り上がるところをギターとストリングスとで分け合い、マックス・ミドルトンの弾くエレクトリック・ピアノがときにストリングスと、ときにギターと協奏というより、競奏という字を当てたほうがいいようなスリリングな演奏を聞かせてくれる。まさにスタンディングで連打を浴びせるボクシングのような気分にさせる。だから、ブロウ・バイ・ブロウ。

 もう1曲のダイヤモンドダストは、このアルバムの最後を飾る曲で、スキャッターブレインと違ってバラード調のメロディアスな曲となっている。この曲は原曲を貰ってからかなり時間をかけてアレンジされたようで、構成の優れたドラマチックな曲となっている。この曲を聞いているだけで誰もがそれぞれのドラマを心に思い浮かべる。
 この曲では、ジェフ・ベックのギターのすすり泣きに、ストリングスの雄大でゆったりとした響きが包み被さるように乗っていく、孤独で悲しい者を雄大な何かが包み込んでいくように。
 日本ではテレビ・ドラマのBGMとして使われたことがあった。どういうドラマかといえば、抽象的になるが、とてもやるせなくて、どうしようもなくて、それでも辛い思いを内面に止めて表に出すことなく生きていく人々の悲しいストーリーといったところだ。
 ドラマの舞台が、ダイヤモンドダストが見られる北国だったかは覚えていない。
 ただ、この名曲を聞くのに北国である必要はない。北国でなくても、晩秋から冬にかけて聞くにはぴったりの曲である。



posted by 春眠 at 07:56| 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

世界で進行するメディアの構造改革

 ユーストリームが登場したとき、録画だけをアップロードするユーチューブと違ってインターネットで誰もがライブ配信ができるということで映像メディアにどのような変化をもたらすか高い関心が持たれた。
 今のところ、ユーストリームというライブ映像配信インフラを使って、テレビ局と同等の中継をしようという起業家はまだ日本国内では出ていないようだ。

 海外から配信されるユーストリーム中継を見ているとときどきおもしろい映像に出くわす。
 C5Nというアカウントからは24時間、ニュースがスペイン語で伝えられている。ニュースの他にブックレビューや政治討論などの番組もあって、ニュース専門のテレビ局がインターネット配信してるのだろうか、それとも誰かが無断で映像を流してるのだろうかと最初は戸惑う。
 C5Nの公式フェイスブックに行くとそこからユーストリームに入りライブ配信が見られるようになっているので、このテレビ局は公式にユーストリームを使って自分たちの番組を流しているとわかる。
 C5Nはアルゼンチンのニュース専門のケーブルテレビ局で、アルゼンチンの成功したジャーナリストが創立したのだそうだ。CNNを意識したネーミングになっていることからも、CNNのアルゼンチン版といった番組内容になっている。
 ユーストリームで流されるC5NにはCMも入っていて、日本でも馴染みの大企業がスポンサーになっている。C5Nはもともとケーブルテレビ局だったこともあって、スポンサーがついているのだろうが、ユーストリームの24時間ライブ中継でテレビと同様のCMが見られることにちょっと驚かされる。
 スポンサーもユーストリーム中継だけのためにスポンサー料を払っているわけではないと思うが、もしユーストリーム中継だけでもスポンサー料を払う企業が出てくれば、インターネット配信専業でもまとまった制作予算が確保できるようになるので、ライブ配信の質は一気に高まるだろう。

 アメリカでは、4大ネットワークのニュース部門はどこもインターネットで録画映像を配信してくれている。それもテレビの報道番組で伝えられたニュース映像をすぐにホームページにアップロードしてくれる。
 テレビを見られない人は、PCをインターネットにつなげば、いつでもテレビで放映されるのと同じ質のニュースを見ることができる。ただし、どの局もテレビのようにすべてのニュースを一気に流すのではなくて、トピックごとにニュース映像を分割している。
 気になるのは、テレビ局報道部門の収益だ。インターネットでコンテンツを流してしまって儲けられるのかと心配にはなるが、ホームページには広告が入っているので、それが収入にはなっているのだろう。こうした大手メディアのサイトに掲載される広告は、もちろん成果報酬型などではなくて、固定の広告料契約を結んでいるはずだ。
 それでも、収益性は気になる。
 おもしろい試みをしているのはABCニュースとCNNで、どちらもPCユーザーがニュース映像を見るときには冒頭で強制的にCMを見させられる。
 テレビで流されるCMは漫然と見過ごすか、休憩タイムということでテレビから離れることもあるが、ユーザー自らがクリックしたインターネットのニュース映像は視聴の準備が万全であるから、否応なしにCMも見てしまう。
 だから、CM視聴の確実性、集中性は、テレビCMよりもこうしたインターネットCMのほうがはるかに高いかもしれない。
 ちなみに、保守系テレビ・メディアとして名高いFOXニュースは、ホームページからほぼ一日中ライブ中継を配信している。

 こうしたアルゼンチンやアメリカの変化はPCユーザーにとってはありがたいことであるけれども、起業という側面で見ると起業家が出て来る前に大手資本がインターネットの動画配信を本格化しているので、新進気鋭のジャーナリストが資本金を集めてインターネット動画配信メディアを立ち上げる成功物語が消滅してしまいそうで残念ではある。
 日本では、大手メデイアがインターネットを軽蔑し、本格的に取り組んではいないようなので、まだメディア起業家にはチャンスがあるかもしれない。資本金を集め、スポンサーを説得すれば、かなりしっかりとしたライブ配信をユーストリームでできるはずだ。
 人々は見かけ倒しよりも、内容、真実、多面的な見方を渇望しているので、才能のあるジャーナリストが本腰を入れれば、低予算でも質の高いインターネット番組が作られるようになるかもしれない。

 ところで、アメリカの大手テレビ局がインターネットを無視できなくなってるのは、新聞メディアの失敗を見ているからだろう。
 アメリカの人々は大手新聞が伝える内容が、公平性と高品質を謳っていながら、どこか一方的な高所からのプロパガンダや洗脳のような気がしていた。そこにインターネットの言論空間が生まれると人々はそちらに流れて行った。双方向的なインターネット・メディアでは不満や疑問を思いっ切り吐き出すことができ、メディアに対して発言力を持つと同時に自分の理解のどこが不足していたかを知ることもできる。
 こうして今や、ポリティコやハフィントン・ポストといったインターネット・ニュースサイトは活字の大手新聞並みの影響力を持つようになった。
 ポリティコの解説員は大手テレビ・メディアに引っ張りだこだし、ハフィントン・ポストの創業者アリアナ・ハフィントンは大手テレビ局の欠かせない論客となっている。
 インターネット・メディアの発展に伴い、活字の新聞メデイアの凋落は著しく、名門新聞社の倒産が相次いだ。
 こういう状況を見ていれば、アメリカの大手テレビ局もさすがにインターネットを無視できまい。
 さて、日本のメディアはどうなるか。

posted by 春眠 at 07:59| 政治・経済・社会・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

古賀茂明 夢の中ではなくて市民の中へ

 10月20日に講談社主催で開かれた講演会では経産省退職後の古賀茂明が今後どういう活動をしていくつもりなのかを表明する所信表明演説のような場となった。そのときの古賀の声には力があり、彼の発する言葉には迷いが無かった。

 古賀は渡辺喜美行政改革担当相のもとで行政改革の仕事をしていたときは颯爽としていた。改革派官僚の中心として、行政改革の先頭を走っていた。身内には嫌がられる仕事だっただろうが、世論の後押しを受けて、官僚の既得権益を打破する仕事に取り組んでいた。
 ところが、政権が変わると今度は様々な政治力学と政治的思惑が働き、古賀は大臣官房付という閑職に追いやられる。そのときの古賀をテレビは追っていたが、地方の中小企業に行って、ヒアリングするなどのリサーチ会社の下っ端がやるような仕事をさせられていて、窓際に追いやられた者の悲哀を感じさせるのに十分な仕事をさせられていた。
 今の古賀があるのは、実はこのときの憐れな姿に一部のマスコミと世間から政府への怒りと古賀への同情が湧きおこったからだろう。行政改革の任務についていたときの切れ味鋭い官僚とは違う人間らしさが滲み出ていたので、多くの人々の共感を呼んだ。

 その後、古賀が経産省で肩たたきを露骨に受けるようになったのは、電力の発送電分離をいろいろなところで主張するようになってからだ。
 10年ほど前にも経産省内では発送電分離を柱とする電力自由化が論議されたようだが、電力自由化の旗手エンロンの崩壊とともにこの話は消えてなくなり、経産省内の電力自由化論者は放逐されたという。
 電力とガスは経産省にとって最後にして最大の利権といっていい。古賀がよく口にする「官僚70歳までの人生プラン」において、退官後の人生は電力業界が面倒を見てくれることになってる。だから、既存の電力会社の利益に反することを経産省はやらない。そんなことをしたら、自分たちの70歳までの人生プランが狂ってしまう。経産省と電力業界は運命共同体なのだ。そして、その運命共同体を維持するコストは国民が払わされる。

 本来なら、このような官業癒着をマスコミが暴いて批判しなければならないのに大手メディアはそうしてこなかった。そうできないのは、電力行政については電力会社からもらう巨額の広告料のせいもあるだろう。
 だが、この講演会で古賀は、広告料だけがマスコミの電力行政と官僚への甘い対応の理由ではないと述べた。
 記者クラブ制度のもとで大手メディアの記者は、官僚から情報をもらう。官僚から嫌われた記者には政府の情報が入って来ずにツンボ桟敷に置かれる。だから、どうしても官僚の顔色をうかがいながら取材をし、記事を書くことになる。古賀が言うには官僚に都合の悪い記事を書いた記者は干されるという。
 他の新聞社が報道した政府の重要情報を、干された記者のいる新聞社では報道できなかったとすると他社に抜かれたことが明白になり、その記者は社内で出世できないばかりか、左遷させられることにもなる。そうならないためには、せっせと官僚が喜ぶ記事を書かないといけない。
 ある新聞社の記者が官庁の広報室にやって来て、他の新聞社がどのような記事を掲載するつもりかを探りに来ることもあるという。その場合、官僚サイドもそのような大手メディアの横並び意識を利用して、うまく官僚に都合の良い同じ記事を書かせるのだそうだ。

 古賀自身がニュースの渦中の人として、このような大手メディアの報道の現実を実感させられることとなったのが、大阪府知事選立候補についての報道だ。
 朝日と毎日は古賀の大阪府知事選立候補に関する情報を掴んでいて、報道するつもりだったときに、ある大阪市の関係者がそれを知らなかった読売の記者にそのことをこっそり伝えた。
 そして、このニュースは大阪で朝日、毎日、読売の1面となるが、読売だけが古賀は立候補に前向きと書いてしまい、誤報となった。読売は古賀本人に取材に来なかったそうだ。読売は又聞きの話だけで1面の記事にしてしまった。
 ただ、どうもこのようなことはよくあるらしい。こうやって、役人はマスコミに恩を売りながら、お互いに凭れ合う関係をつくっていく。
 とするなら、大手メディアが政治について報道する内容は、国民にとって大事なことではなくて、役人の既得権益を守るために大事なことになってしまう。

 古賀は日本が変わるためにはメディアの変革も必要だと訴えている。
 たとえば、政府記者会見をインターネットでライブ中継し、その場で有能なジャーナリストが解説してしまえば、テレビや新聞の報道はいらなくなる。
 記者クラブメディア以外の新しいメディアが育つことで国民は真実に近づけるようになる。政府広報機関としてのマスメディアではない、批判的な真のメディアが出て来ることが政治に変革をもたらす。

 古賀は今のところ政治家になるつもりはないという。それよりも、改革に賛同してくれる議員に働きかけて、政策立案で協力していくつもりのようだ。確かに古賀が今から政治家になっても、彼のビジョンを実現するために議会内、党内、派閥で力を手に入れるにはとてつもない時間が必要だろうから、このほうが政策実現には時間がかからない。
 今後は議員に働きかけるだけでなく、市民とやっていきたいとも言っていた。
 これまでは、業界団体だけが政治とつながり、政治に自分たちの既得権益を守らせてきた。その反面、市民の利益はないがしろにされてきた。
 もし古賀が本当に市民の中へ入り、市民にコミットして政策実現のための活動を展開し、支持を拡大させることができるなら、市民の強力な民意をバックにして、議員バッジがなくとも単なる一議員以上に政治への大きな影響力を持つだろう。

 井上陽水は夢の中へと誘うが、元官僚は見つけにくいものを探しに市民の中へ入っていく。

posted by 春眠 at 10:34| 政治・経済・社会・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

SPEEDIやら「ただちに」やら、枝野前官房長官の言い分 前段

 枝野現経産大臣は官房長官のとき、原発事故後の2週間で39回の記者会見を開いた。しょっちゅうテレビで彼の記者会見の様子が流されていて、ときには深夜、早朝に会見が行われていたので、枝野はいつ寝てるのだろうと心配する声も出たほどだった。
 彼は官邸で菅前首相とともに原発事故対応の中枢にいた。

 国難に襲われたときには、たいてい国民の非難の矛先は時の政府に向かう。政府は、国民のフラストレーションを一身に集めて、ボクシングのサンドバッグのように、あるいはモグラ叩きのモグラのようにポカスカ殴られる。
 原発安全神話のもとで、これまで誰も今回のような原発過酷事故について真剣に対処法を考えたことはなく、どこの誰が政権にいても右往左往するばかりで、まともな対応はできなかっただろう。
 過去のどの政権でも、未経験の国難に遭遇すればガタガタになって政権が崩壊してきたので、菅前政権もその流れを踏襲しただけだ。歴史は繰り返す。

 ただ、過去の政権では、政権中に厳しい批判を受けても、政権離脱後に首脳級の政治家があまりペラペラ内実をしゃべることはなかった。が、菅政権では原発事故対応に関しては、政権中枢にいた政治家がメディアのインタビューでよくしゃべる。
 このことを快く思わない政治家もいるようだ。国家機密を抱えながら、政権の中枢にいた者が、政権を離れた途端に口が軽くなるのは、言い訳がましいし、今後の政権運営に悪影響を及ぼしかねない、というのがその理屈だ。
 私は基本的にこの考えに同調する。ただし、何にでも例外はある。前政権の中枢にいた者が、国民的な大問題となっている原発事故についてなら、話をするのは許されるし、また、話してもらわないと困ると私は思う。
 当初、国民生活に直接影響のある原発事故なのに、与野党の政局の道具に使われてしまい、マスコミから届く情報が虚実ないまぜになって伝えられ、何がどうなったのか整理がつかないでいた。だから、事故当時、実際に政権についていた者がどう判断し、何をしたのかを国民はできるだけ早く知る権利がある。
 また、菅前首相も枝野前官房長官も原発事故対応では市民団体から刑事告発されており、自身の刑事告発対策としても、自分たちのやっていたことをできるだけ公表せざるを得ない立場に追い込まれている。

 菅前首相や枝野前官房長官だけでなく、前政権の官邸筋からもいろいろな情報が流されている。
 評判の悪い菅前首相の12日のヘリでの福島第一原発視察であるけれども、原子力安全委員会委員長が絶対に水素爆発は起きないと断言したので、官邸は視察を決めたのだと言う。
 何しろ、11日深夜から格納容器の爆発を防ぐためにベントをするようにと東電に指示してもベントが一向に進まない。官邸サイドが東電に問いただしても返事がはっきりしない。
 ベントしなければ、原子力安全委員会委員長が水素爆発は無いと言っても、圧力に耐え切れなくなった格納容器が破裂して、放射能がまき散らされる恐れがあるから、官邸は心配するだろう。それで、ベントをしない現場の状況を確認するために(あるいは、ベントするようにどやしつけるために?)菅前首相は福島第一へ行くことにした。
 現場は全交流電源喪失状態で、バッテリーも切れてしまい、ベントの電動装置が働かなかった。いろいろと電源はかき集めたものの電源接続がうまくいかず、てこずっていた。それでも、時間をかけて調べれば接続方法もわかってくるので、東電としては何としても電動でやりたかった。
 それはそうだ。
 手動のベントでは、人が原子炉に行ってバルブを開けなければならない。放射能の充満したところで作業するなど誰だって躊躇する。それは、電動ベントにこだわるだろう。

 早朝、視察の名目で訪問した菅前首相は、現場で吉田所長と話し、手動でのベントを約束させる。吉田所長は決死隊を組織すると答えたそうだ。なんとも悲痛な決意をしたものだ。
 菅前首相と東電幹部との福島第一での面会の様子は東電関係者からも漏れていて、話し合いなんて生易しいものではなく、菅前首相が東電幹部を前にひたすら怒鳴り散らしていたようだ。

(後段に続く)

posted by 春眠 at 07:39| 原発・放射能・自然エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月29日

SPEEDIやら「ただちに」やら、枝野前官房長官の言い分 後段

 福島第一原発の吉田所長と作業員らの決死の覚悟のかいもあって、1号機のベントは成功したと思われたが、その後すぐに1号機は水素爆発を起こす。
 残念なことに、日本の原子力研究の叡智の中の叡智であるはずの原子力安全委員会委員長の判断(水素爆発は無いと断言した)がいかに誤っていたかを日本中、いや世界中に知らしめてしまった。
 その後は御存じの通り、2、3、4と立て続けに爆発してしまった。

 3号機爆発のあと、東電社長が撤退させてくれと政府に言ってきという話が伝えられたとき、「いや、そんなことは言ってない」と否定する話も流れた。菅前首相は政権離脱後にはっきりと経産大臣経由で東電社長が撤退したいと伝えてきたことを明らかにしている。
 原発安全神話のもと、原発マネーで踊っていただけの東電は、過酷事故への備えも無く、撤退したくなる気持ちもわからないでもない。その気持ちに配慮してか、そのときテレビに出ていた原発推進の学者は、東電には無理だから、自衛隊に対応してもらえ、と発言していた。
 自衛隊はアメリカの軍隊と違って、原発の専門家はいないはずだ。自衛隊の中に福島原発の設計図を読める技術系軍人がいるなら対応可能だろうが、そんな話は聞いたことがない。
 だから、この原発推進学者の発言は随分無責任だと思ったものだ。

 専門家や事業者、政治家、マスコミの間でわけのわからない情報が交錯する中で、一番混乱させられたのは福島県民だろう。
 3月23日になって公開されたSPEEDIの汚染マップを見て、事故直後に公開してくれれば、住民は被曝を避けることができたのにと誰もが思った。
 ところが、この件について、枝野前官房長官は経産大臣就任記者会見のときに内実を明かしている。原発事故後、官邸にSPEEDIの情報が上がって来ないまま、3、4日経ってからSPEEDIの担当者を呼んで話を聞くと、放出源情報が無いので、役に立たないと答えたそうだ。
 英語にガベッジイン・ガベッジアウトという言い方がある。どんなに優れたコンピュータでも、入力されるデータがガラクタなら、コンピュータの計算結果もガラクタになるという意味だ。
 震災で原発現場の計測器やデータ伝送システムが壊れてしまえば、ガベッジどころか何のデータも来ない。ゼロイン・ゼロアウトだ。そんなことは、このシステムを発注した文科省ならわかっていたはずだ。(いっそのこと、原発建屋の屋根の上に巨大なエアフィルターを付けておけば良かったのだ!)

 SPEEDIは役立たず、で済ますわけにはいかなかったのだろうか? 枝野前官房長官は、粘る、諦めない、何としてでも結果を出させる。彼は、文系でもこの程度のことはわかると言ったことを命じる。
 枝野前官房長官は、すでに周辺地域の放射能モニタリング測定値も気象情報もあるのだから、逆算してアウトプットを出せないのかと問うと、やってみると担当者は答えたそうだ。
 枝野前官房長官の言ったことが真実であるのなら、SPEEDIが実態通りに汚染マップを出せたのは、事故当時のシミュレーションが優れていたのではなくて、後付けでデータをシステムに放り込んで、あの汚染マップを描かせたからなのだ。
 政府は情報を隠蔽したのではなくて、単にSPEEDIが出来の悪いシステムだったので原発過酷事故の際の放射能汚染予測に使えなかっただけなのだ。

 SPEEDIがやったこととは、安価なお絵かきソフトでもできることだけだった。

 そんなものに100億円も注ぎ込んだ国とは、いったい国民の税金を何だと思ってるのか? 国には、このような無駄な公共事業がとても多いのだろうと簡単に推測できてしまう。

 枝野前官房長官は、経産大臣就任記者会見のときに評判の悪い「ただちに」発言についても釈明している。
 彼は原発事故後2週間で39回開かれた会見で「ただちに健康に影響は無い」と口にしたのは7回で、そのうち5回が食物についてのものだったと言う。
 それは、食物の暫定基準値が決められる前に流通したものを食べてしまった消費者へ向けてのメッセージであって、暫定基準値はその値以上のものを1年間食べ続けた場合に健康被害が出るという前提で決められたものなので、極めて短い期間なら影響は無いと判断できるだろうと主張する。

 論理というものは、議論が前提からスタートし、論理の展開は前提に従う。だから、前提が暫定基準値なら、枝野前官房長官の論理は正しい。
 問題は、国民がこの前提を疑っているということだ。食物の放射能濃度の基準値を下げると、東電と国が負担する補償額が増えるので、あえて基準値を甘くして、消費者に損害を補償させようとしてるのではないかと疑っている。

 SPEEDIと「ただちに」発言から見えて来るものは、政府の背後にはとても巨大な利権集団があり、それを報道するマスコミもその集団の広報機関になり下がってしまっているということだ。
 自民党と民主党という政権交代可能な2大政党はともに電力業界から絶大な支援を受けている。また、政治家が専門家の知恵を借りるときも専門家自体がすでに買収済みなのだ。官僚も天下り先の業界を保護しようと政府情報の流れを都合よく操作し、野党とマスコミを思うように動かして政権与党に揺さぶりをかける。

 今回のとてつもない災難である原発事故で、仮にも国民にとって良かったことがあるとすれば、それは華やかに舞台で演じている役者が背後にいるとても多くの黒子に操られているとわかったことぐらいだろうか。

posted by 春眠 at 07:24| 原発・放射能・自然エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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