2011年11月01日

哀しみの恋人たち

   男は妻と別れたあとロサンゼルスで酒に溺れていた。
   酒をもっと自由に飲みたいと思い、ラスベガスに行く。

   女はロサンゼルスで娼婦をしていた。
   でも、ヒモから自由になるためにラスベガスに逃げた。

   偶然の巡りあわせにより、男と女はラスベガスで出会う。
   アル中と娼婦のあり得ない恋愛が始まる。

   男と女は、女のアパートで暮らす。

   女は夜になると仕事に出かける。
   仕事って? もちろん娼婦としての仕事だ。
   男と寝てカネを貰う。

   男は一人酒を飲み続ける。女はそんな男を許し、いたわる。
   女は男が本気で愛してくれていると信じていたからだ。
   女は二人が厚い信頼の絆で結ばれていると信じて疑わない。

   夜の仕事を終えて、女は帰宅する。
   そこには信じられない光景が広がっていた。
   男は別の女と寝ていた。この女は娼婦だった。

   男に裏切られたとの思いが胸に込み上げてくる。
   女はすすり泣く。とてもやるせない気持ちになる。

   男は女の信頼を裏切ったと悟った。
   取り返しのつかないことをしてしまった。
   強烈な後悔の念に襲われる。
   でも、もう取り戻せない。男は部屋を出て行く。

 以上の話は、作家ジョン・オブライエンの代表作である「リービング・ラスベガス」という小説の粗筋だ。

 ジェフ・ベックの全曲インストゥルメンタル・アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」には、スキャッターブレインとダイヤモンドダストという名曲の他に「哀しみの恋人たち」というラブバラードの名曲がある。
 リービング・ラスベガスの二人は、まぎれもなく哀しみの恋人たちだった。

 このラブバラードの原題は、Cause we‘ve ended as loversという。直訳すると、二人は恋人として終わってしまったので、となる。
 この曲の展開を追って行くと、哀しみの恋人たち、よりも、二人は恋人として終わってしまったので、のほうがしっくり来る。
 もちろん、「哀しみの恋人たち」という日本語タイトルは宣伝コピーとしては秀逸だと思う。少なくともアルバムの日本語タイトル「ギター殺人者の凱旋」よりははるかによくできている。タイトルのせいもあったのだろうか、この曲が日本でシングルカットされたとき、ラジオからはこの曲の哀愁を帯びたギターのフレーズが繰り返し流された。

 哀しみの恋人たちは、狼の遠吠えのようなギターの断続的なむせび泣きから始まる。少しずつギターの音色は熱を帯びて来る。そして、中盤に入ると曲は急激な盛り上がりを見せ、泣き叫ぶような激しいギターの音色で覆い尽くされる。ギターが狂ったように泣き続ける。
 そして、最後に再び静けさを取り戻してしっとりと終える。
 この曲はダイヤモンドダストほど長い曲ではないが、同じくらい構成がダイナミックで、ドラマチックな仕上がりになっている。ギタリストのジェフ・ベックとプロデューサーのジョージ・マーティンの二人の才能が、火花のようにぶつかりあってできた曲だと容易に想像できる。

 ところで、冒頭の話に関して、恋愛の終わりを歌った曲で、なぜアル中と娼婦の恋の終わりなのか? もっと純粋な恋愛の終わりでもいいのではないか?
 いわゆる一般的な純粋の恋愛、悲恋なら、映画「ロミオとジュリエット」のテーマ曲でいい。
 このラブバラードは、過去に引きずられて今をうまく生きられない男女の愛の終わりにこそふさわしい。

 リービング・ラスベガスで娼婦が仕事としての性愛と信頼に基づく恋愛を分けていることに戸惑う。娼婦であったとしてもいいが、恋愛が始まったのなら娼婦をやめるべきではないか。
 女は自分の心の中では好きな男への愛情と生活費を稼ぐための乾いた愛とを分けている。言葉を変えれば、純愛とそうでない愛とを分けている。
 純愛はお互いの信頼関係が傷つけば終わる。だから、二人は恋人として終わってしまったので、となる。

 ちなみに、リービング・ラスベガスは、ジェフ・ベックの名曲「哀しみの恋人たち」が想像させるような、男女の別れ、だけでは終わらない。
 最後に女が再び男のもとに戻って来る、永遠の魂に慈しみを捧げるために。



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2011年11月02日

野菜を鷲掴みで食べるギタリスト 前段

 そのころスティービー・ワンダーはまだ20代前半だったけれども、幼いころから音楽活動を続けていたため、芸歴は長かった。
 彼の不満はミュージシャンにとって最大の名誉であるグラミー賞を受賞できないことだった。グラミー賞の選考に影響力のある関係者にグラミーをとれない理由を聞いてみると音が黒過ぎるからと言われ、自分が愛するブラック・ミュージックを頭ごなしに否定されたように感じ、怒り心頭に発した。
 だが、このときスティービーは差別への抗議行動に出るのではなくて、それならあまり黒くない音楽を作ってやろうと考えた。戦略的にグラミー賞をとろうと計画を練った。
 スティービーが名誉欲のために自分の音楽性を捨てる覚悟で、白い音楽をあえて受け入れる決意をしたのか、はたまた自分の音楽を洗練させるという純粋な向上心によって楽曲作りに励んだのか、そのときの彼の真意はよくわからない。
 とにかく、スティービーはグラミー賞受賞を目指して楽曲作りに取り組む。そんな彼がグラミー賞受賞を目指して戦略的に作った曲が有名な迷信で、この曲は大ヒットした。その後、同様の目的で作られたサンシャインも大ヒットする。
 そして、スティービー・ワンダーは念願のグラミー賞受賞を果たす。

 私は、スティービーがグラミー賞関係者の言う通りに黒さを薄めた音楽を作ったと知ったとき、不思議な気持ちがした。なぜなら、私にとっては迷信もサンシャインも十分に黒く響いたからだ。どちらもソウルやR&Bのスピリットに溢れていて、どこが白っぽいのか最初はよく理解できなかった。
 だが、迷信以前のスティービー・ワンダーの曲を聞いてはじめて白っぽいブラック・ミュージックの意味がわかったような気がした。シングル曲・迷信(アルバムならトーキングブック)の前後でスティービー・ワンダーのサウンドは確かに大きく変化している。
 それまではR&Bを元気いっぱいに歌っているだけだったのに、迷信を境にアレンジに凝るようになり、サウンド全体のバランスを考え、楽曲の構成にも配慮するようになったのが歴然としている。

 スティービーの歌声には特徴があり、少し声が弾み過ぎている。だから、サンシャインのようなアップテンポ・バラードを一人で歌い切るとバラードらしさが打ち消されてしまい、ただの乗りの良い曲になってしまう危険性がある。スティービーが一人で、きみはぼくの太陽だ、と歌い上げても、あまり情感が湧いて来なかっただろう。
 サンシャインでは、バックコーラスの歌手に出だしのメロディーをソフトに歌わせている。男声が「きみはぼくの太陽だ」と歌うと、女声がそれに答えるように「あなたはわたしの心を奪ってしまった」と歌う。二人に恋歌のかけ合いをやらせている。そのあとにスティービーの弾んだ声が続き、二人をからかうように歌う。
 メローな男女の声のあとに続くスティービーの弾んだ声は、愛する二人をからかいながらも温かく見守る友人か何か(恋の解説者のような)のように聞ける。
 こうして、サンシャインはただの乗りの良いラブソングにはならず、ユニークで情感のあるバラードになった。

 名曲・迷信は、前奏のリフがロックギターのような音を出していて、黒人のソウルとは一味違った味付けになっている。スティービーが好きなブラスも盛り上がりを際立たせるために慎重に計算して抑制的に使われており、それが却ってブラスに一段と迫力を与えている。
 歌詞も捻りが利いている。タイトルが迷信というのだから、迷信を肯定するのかと思いきや、「迷信なんてものを信じたらあんたは苦しむぜ」と歌い、迷信を否定し、迷信を信じる者を憐れんでいる。
 このへんの皮肉っぽい歌詞も、シニカルなインテリ批評家には受けが良かったのだろう。

 どうも、スティービーの言われた音が黒過ぎろというのは、構築力が無く、構想を十分に練った跡も無く、構成が理路整然としていない、という意味がありそうだ。
 もし私の見解が正しければ、やはり音が黒過ぎるという言い方は有色人種への差別だろう。有色人種は感覚的かつ感情的で、理性を欠いていると言われたようなものなのだ。
 今にして思えば、「黒っぽい音」というのは白人インテリ批評家たちの間だけで使われていた隠語だったのかもしれない。
 ただ、インテリ批評家の功罪はここでは脇に置く。スティービーの名曲・迷信に纏わる迷信でない事実にフォーカスしたい。

(後段に続く)

posted by 春眠 at 07:49| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月03日

野菜を鷲掴みで食べるギタリスト 後段

 スティービー・ワンダー作曲の名曲・迷信で話題となったのは、前奏の粘っこく強烈なビートを奏でるリフだ。
 迷信はもともとスティービーがギタリストのジェフ・ベックにプレゼントした曲だった。前奏のリフはギターをかなり意識している。
 スティービーの演奏では、そこをクラビネットというキーボードで弾いている。クラビネットはギターの音色の出せるキーボードで、ギターサウンドとまったく同じではないけれども、鍵盤を叩くとエレキギターの弦を引っかくような音が出せる。

 当時のジェフ・ベックはジョージ・マーティンと出会う前で、ベック・ボガート&アピスというちょっと斬新さの欠けるブルース・バンドを率いていた。それでも、このバンドでジェフが弾く迷信の前奏のリフは迫力がある。少々粗っぽいのが気になるが。
 有名な話でご存じの方も多いと思うが、迷信はジェフが最初にシングルカットするはずだったのにスティービーのほうが先にシングルを出してしまい、大ヒットさせてしまった。この件はジェフを怒らせ、その後お互いの間にしこりを残してしまった。

 スティービー・ワンダーは、ジェフ・ベックと会ったときの印象を自伝に記している。
 いっしょに食事をしたときにベジタリアンのジェフ・ベックは野菜を鷲掴みにして食べた。ジェフの言い分は、何でも自然であることが大事だということだったが、スティービーにはその食べ方がどこか野蛮に思えた。
 迷信の一件でのジェフの怒りについても、スティービーは野蛮な男が人の事情を理解せずに怒っているだけだと思っていた節がある。

 それでも、スティービーはお詫びとしてジェフ・ベックのソロ・アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」のために別の曲を用意した。
 それが、名曲「哀しみの恋人たち」だ。
 私は「哀しみの恋人たち」がスティービー・ワンダーの作曲だと聞いたときとても驚いた。ヨーロッパ映画の映画音楽として使われそうな、ニーノ・ロータでなくてもフランシス・レイあたりが作曲しそうな曲をソウルミュージックのスティービー・ワンダーが作曲したのだ。
 ただ、「哀しみの恋人たち」の原曲は、ブロウ・バイ・ブロウに収められた曲とはかなり受ける印象が違う。
 ある女性ソウル・シンガーが歌詞付きバージョンを歌っているのだが、この歌はジェフ・ベック・バージョンのようなドラマチックな展開がまったくなく、眠気を誘うほど退屈で単調な曲になっている。たとえるなら、お経を聞かされているような、いや、お経のほうがましかもしれないとさえ思えて来るほど盛り上がりに欠けている。
 その反面、ジェフ・ベック・バージョンには、ダイヤモンドの原石を優れた職人芸で徹底的に磨き上げて完成した最高級の宝石のような輝きがある。

 アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」は、どの曲にもアレンジに苦心の跡が見える。ロックギター音楽史上最高傑作の一つと称賛される名曲「哀しみの恋人たち」も、ポップ・ミュージックの名伯楽ジョージ・マーティンの大いなる影響のもとで洗練された。
 一つの才能ではなく、三つの類稀な才能が集まってできたのが「哀しみの恋人たち」であって、一人一人はとてつもない才能の持ち主だとしても、人は一人だけではうまく行かないようだ。

 ところで、迷信の一件で私が残念だと思うのは、もしジェフ・ベックがジョージ・マーティンとのアルバム作りを決めた後でスティービーから迷信を提供されていたらどうなっただろうかということだ。
 迷信はよくできた楽曲なので、スティービーが強硬にシングルにすることに反対しなければ、いずれにしても周囲の者たちがシングルにするように取り計らっただろう。
 ただ、私はジョージ・マーティンのプロデュースで迷信を聞いてみたかった。
 マ−ティンなら、前奏のリフをどうアレンジしたのだろうかと思ってしまう。マックス・ミドルトンにスティービー・ワンダーと同様にクラビネットを弾かせただろうか、それともブロウ・バイ・ブロウ全編でマックス・ミドルトンが弾いているエレクトリック・ピアノのフェンダーローズでやらせただろうか、あるいは、ジェフ・ベックが自分のバンドでやったようにギターにしたのか、といろいろな可能性を想像してしまう。
 でも、ブロウ・バイ・ブロウは迷信が無くても名アルバムと称賛されている。あまり欲張ってはいけないのかもしれない。

 ジェフ・ベックとスティービー・ワンダーは、お互い十分に大人になってから迷信を共演している。
 前奏のリフは、もちろん、ジェフ・ベックの定番ストラトキャスターだ。
 ところが、ブロウ・バイ・ブロウの哀しみの恋人たちでは、ジェフ・ベックは定番のストラトキャスターではなくて、テレキャスターを弾いている。
 哀しみの恋人たちは、遠くへ響き渡る、断続的で静かなむせび泣きから始まる。高音域を揺らしながら引き延ばすには、テレキャスターのほうが向いているので、そうしたのだろう。
 ただ、今はストラトキャスターを使って演奏していて、哀しみの恋人たちの始めのフレーズをトレモロで音を揺らしながら弾いている。
 私はその延び切れない泣き声を聞いて、そうじゃないといつも思う。

posted by 春眠 at 08:04| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月04日

薄緑色のサマードレスを着た女の凄絶な純愛劇

 作家ジョン・オブライエンの代表作「リービング・ラスベガス」には二人の主人公がいる。
 一人はベンという飲んだくれの男で、もう一人はサラという売春で生計を立てている女だ。二人はラスベガスで出会い、恋に落ちる。
 二人がいっしょに暮らし始めてからある晩、サラの提案でギャンブルに行くことになった。

 そのときの彼女の身なりはこんな感じだ。
 薄緑色のサマードレスを着て、髪の毛は自然におろされている。両方の耳についているイヤリングは揃いのものでは無い。違うイヤリングを右耳と左耳につけている。

 さて、サマ−ドレスがどういうタイプのものかは詳しく書かれていないので、勝手に想像してみる。
 色は薄緑色ということだが、単色ではないだろう。薄緑が基調となって、他のもっと弱い色、たとえば、白かそれに準ずる色が使われてるはずだ。柄もついている。花柄でも水玉でも無いだろうが、草木をイメージした抽象的な柄が入っている。
 ノースリーブではなく、おそらくショートスリーブだろう。ワンピースのドレスのスカート部分には襞が入っていない。
 同じ一つの布地を頭からストンと被ったようなつくりになっていて、大きさは多少ゆったりしているが、身体の線が見えないということも無い。

 こう想像した理由を説明すると、サラは一色で描かれるほど生真面目な人間ではないから単色ではないし、人間性に豊かさが見られるのでドレスには柄が入っている。フォーマルなものでないから、尚更そう思える。
 ノースリーブでないと思えるのは、彼女はおそらく身体がそれなりにしっかりしていて、重みがあると思ったからだ。つまり、彼女の肩の周りは痩せている女性ほど骨ばっておらず、どちらかといえば肉付きのよい肩をしている。そういう肩を露出させるのはあまりエレガントではなく、ショートスリーブで少なくとも肩は隠したほうが良いはずだ。
 身体の線は崩れてはいないが、自慢するほど身体の線がきれいではない。そのへんを曖昧にするために余裕のあるドレスを着る。だが、断じてぶかぶかではない。肩の肉付きは良くても、下腹はたるんでおらず、引き締まっている。ウエストについてはさほど悲観していない
 襞が入っていないのは、彼女が普段の生活の中でドレスに襞を入れるほど夢見てはいないからだ。日々の現実をこなしていくだけの生活に、たとえデートであっても、襞はふさわしくない。

 恋人のベンは、サラのこの装いを趣味が良いと思った。男がそう判断したのなら、恋は盲目でなければ、女が衣服で自分の弱点をうまく隠し、良い面を強調しているはずで、このようなサマードレスなら趣味が良いと言えるのではないかと多少なりとも細部を詰めてみた。

 この装いで一番のポイントは、イヤリングだろう。サラは別々のイヤリングを左右の耳にぶら下げている。
 ベンは、彼女の別々のイヤリングが気に入ったようで、彼女に別々のイヤリングをつける女性が好きだと言う。
 そう思うのは彼がバランスを欠いているからだと小説では説明されている。バランスを欠いてる者にとっては、ときにバランスのあるものが憎くなる。バランスのとれていないものがとても愛しく、美しい。
 バランスのある一般の良識人であっても、ときにバランスを欠くことはあって、ベンと同じように思うこともたまにはあるかもしれない。だが、ベンはそれが常態化している。
 ところで、このとき娼婦のサラはベンに告げる、自分が仕事で客と寝るからといって、左右の耳で違うイヤリングをつけたような別の女を連れ込んで自分をばかみたいに見せるのだけはやめてくれと。
 サラは娼婦だけれども、これが男に要求する最低限の尊厳だった。
 ベンは、そんなことをするわけがないと確信していた。

 物語はサラがこの趣味の良い薄緑色のサマードレスを着てから、急展開を見せる。
 お互いが少しずつ見えて来る。二人が背負い込んだ人生の重み、試練がのし掛かって来る。

 サラには、ベンがただのよくいるアル中ではなくて、アルコールのせいで相当重い病にかかっていることがわかってくる。
 サラが心配して医者に行けと言っても、ベンは聞く耳を持たない。それどころか、ひどく機嫌を悪くする始末だった。
 そんなベンを許すようにサラは次のように言う。これはこの小説でも有名なセリフだ。

「あなたはそんなに具合が悪いのだから、あなたを生かし続ける唯一のものが、たぶんわたしなんだわ」

 この優しさに反抗するかのようにその晩、ベンは別の娼婦を家に呼ぶ。
 そこにサラが娼婦としての仕事を終えて帰って来る。
 サラの尊厳はずたずたに引き裂かれる。
 あとは、すすり泣く女と後悔の念に押し潰されて部屋を出て行く男の姿。

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 その後、女は男に再び会う、娼婦でさえぞっとするような薄気味の悪い部屋で。
 男は二人が別れなければならない原因を作ったことで涙ながらに謝罪する。
 でも、女は男の謝罪を聞きに来たわけではない。彼女はひどく具合の悪い男を看病しに来たのだ。
 女は男を慰めながら、すべての謎が解けたと思った。
 そのときの彼女の思いは以下のように説明されている。

 わかったのは、彼女はこれからの人生で何度も何度も、毎分毎秒どういうふうに彼を愛し続けていくか。

 わかったと思ったとき、思いが伝わる間もなく、ドラマの幕は下がる。


 ちなみに、角川版の解説によれば、作者のジョン・オブライエンは、まったく売れなかったこの小説の映画化の件で2千ドルのオプション契約をファイナライズさせた2週間後に拳銃で頭を撃ち抜いて自殺したのだそうだ。享年34。
 殺風景な部屋に残されていたのは、ピザの箱と半分空になったウォッカのボトルだけだったという。

posted by 春眠 at 14:48| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月10日

陸山会裁判において2人の対立する弁護士が図らずも一致した判決の正当性

 郷原信郎弁護士はマスコミが小沢一郎議員を裏金疑惑で叩いていたときに小沢批判の問題点を指摘し、一躍時の人となった。それ以降も一貫して小沢議員の収賄疑惑を否定し続け、政治収支報告書虚偽記載事件についても無罪、あるいは軽微な罰(罰金刑)を主張している。
 片や、早川忠孝弁護士は郷原弁護士の主張に反論し、陸山会事件は有罪が相当であるし、小沢議員そのものの疑惑は晴れていないと主張している。
 両者がネットで相対して陸山会裁判について交わした激論は話題になった。

 九月に判決の出た陸山会裁判についてはネット上に両者それぞれが見解を公表している。それらを読むと早川弁護士のみならず郷原弁護士も判決の正当性を認めているように見える。
 早川弁護士はもとからそのような主張だったので当然なのだが、郷原弁護士もご本人の法律論に基づくと不満な点はいくつかあり、かなり強い言葉で裁判所・検察を非難しているけれども、判決そのものは正当であると認めざるを得ないようだ。

 郷原弁護士は、公判前整理手続で裁判官が水谷建設関係者の証人尋問を認めた段階で、今回の判決はほぼ決まっていたのだと言う。水谷建設関係者を証言させるということは検察のシナリオに乗せられたということで、贈賄を認める証言を検察が引き出すのは当然であり、それで判決は決まってしまったのも同然だと主張する。
 驚くべきことに郷原弁護士は、公判前に裁判官が水谷建設関係者の証人尋問を認めただけで、収賄を隠すための虚偽記載という因果関係が成立してしまったと言っているのだ。
 郷原弁護士の主張が正しければ、公判前にほぼすべて決着がついていて、裁判そのものは不要だった。
 だが、被告側弁護人が検察側証人の贈賄証言の誤りを法廷で証明できれば、有罪判決は出ないはずだ。だから、郷原弁護士は被告側弁護人はいても、いなくても同じだったと言っているようにも聞こえる。

 水谷建設元社長は、法廷でかなり詳細かつ具体的に贈賄の状況と行動の足取りを語っている。証言の重みというのは具体性の強いほうが勝る。検察側証人の証言の具体性に対して被告側は反証できず、妄想では無くて自由心証主義に基づいた裁判官の判断を翻せなかった。
 また、宣誓した証人には偽証罪があるが、当事者(原告と被告)には偽証罪の適用はない。だから、当事者が否定したとしても、宣誓した証人である水谷建設元社長の具体性の強い贈賄の証言は、証拠としての高い証明力を有する。これは、検察官取調室のような密室での証言ではなくて、公開の法廷での証言であるから、とりわけ重い。

 小沢擁護派は、訴因変更が大問題であるかのように主張する。だが、公判前整理手続の後、公判中であっても訴因の変更は刑事訴訟法312条1項により認められている。
 判例が無いと言う一部マスコミ司法関係者もいるようだが、東京高裁判決平成20年11月18日の判旨においては、公判前整理手続では争点とされていなかった事項に関し、公判で証人尋問等を行った結果明らかとなった事実関係に基づいて、訴因を変更する必要が生じたときは許されるとある。つまり、下級審判例そのものはある。

 そして、早川弁護士と郷原弁護士との間での最大の争点は、おそらく国民的な関心事ともなっている4億円の出所だ。
 郷原弁護士は、小沢議員からの借入金として収支報告書に記載されているので問題無しとしている。
 その一方で、多くの大手マスコミが追及しているように早川弁護士は、その4億円がどこから小沢議員のところに来たのかが明らかでないことを問題視している。
 郷原弁護士はそこに贈収賄を見るのは妄想でしかないと言うのだが、水谷建設元社長が宣誓した証人として法廷という公開の場で贈賄をしたと証言している。
 とすると、4億円の出所について贈収賄との関連を疑うのは、必ずしも妄想とは言えない。
 4億円の出所を法廷で議論するのは、起訴事実とは無関係だという意見もあるが、収支報告書の誤った記載が虚偽記載なのか、単純な記載ミスなのかの判断の分かれ目は、虚偽の動機・原因が有るか無いかによる。
 4億円の中に賄賂が含まれるのなら、収賄をごまかすためという動機に基づいた虚偽記載となり、虚偽記載の確からしさは強まる。だが、もしこうした動機がなければ、ただの記載ミスにすぎない。
 だから、4億円の出所を明らかにするのは、虚偽かそうでないかの判断の大きな分かれ目となる。
 家族名義の口座から移したという説明もしているようだが、家族名義の口座はマネーロンダリングに使われやすいので、もっと出所を遡らないと贈収賄事件を何度も手掛けている裁判官や検察を納得させるのは難しい。

 陸山会事件を一部関係者は菅家冤罪事件と同じと見る向きもあるようだが、菅家冤罪事件では、完璧な反証としての精度の高いDNA判定があり、それが冤罪を晴らす決め手となった。陸山会事件ではこのような完璧な反証が未だに小沢議員周辺からは示されていない。
 逆に言えば、陸山会事件では、菅家冤罪事件のような完璧な反証を提示できれば、つまり、4億円の出所に事件性が皆無であることを完璧に証明できれば、小沢議員がよく言うようにただの形式犯であって、検察が主張するような実質犯ではなくなる。
 そのためには小沢議員自身が公判で4億円の出所について詳しく証言する必要があろう。

posted by 春眠 at 09:50| Comment(0) | 政治・経済・社会・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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