2012年01月03日

リービングラスベガスと医学生崩れ

 リービングラスベガスという小説を一読したとき、駄作だと思った。
 単なるアル中と娼婦のどうでもよい恋を描いただけで、スキャンダラスをアピールしているとしたら、もう飽きているテーマでもある。

 それでも、読み込んでみると人生とか、世界、宇宙についての箴言めいたものがあり、まあ純文学としてそれなりの評価はできるだろうと思ったが、その程度でしかない。

 それでも気になったのは、仕事仲間にこの小説をもとにした映画「リービングラスベガス」を推していた者がいたからだ。

 その男と酒を飲んでいたとき、やたらとこの映画を褒めまくる。
 酒好きの男だったから、気に入ったのかとそのときは思った。

 彼は超難関の医学単科大学に入学した。
 入学した、としか言えないのは、彼が医師の資格をとらなかったからだ。
 卒業したのかどうかは記憶にない。

 彼は、最初の人体解剖のときに人はたんぱく質の塊にすぎないと認識したそうだ。(モーパッサン的だね)
 人が自殺しないのは、単に死ぬときに痛いからとかそんな理由にすぎないとも言っていた。(ここはニーチェっぽいね)
 
 そういう冷めた男が、こういうねちっこい映画を称賛するのがよくわからなかったので、ことさら印象付けられてしまった。

 とにかく、医学部での人体解剖の後に彼にとって人間は、人権団体や一部のアーティストが声高に叫ぶほど尊いものでもなくなってしまった。



posted by 春眠 at 11:49| Comment(0) | 政治・経済・社会・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月04日

グアムで検出されたプルトニウム

 グアムでは1978年以来はじめてプルトニウムが2011年3月19日にエアフィルターで検出されたことが米国環境保護庁のデータベースに記録されている。
 半減期24000年のプルトニウム239が極微量検出されていて、検出量は以下の通りだ。

 プルトニウム239 0.000000444Bq/㎥

 半減期88年で放射能強度が大きいプルトニウム238は不検出とみなしてよい結果となっている。
 この日はウラン235、ウラン234、ウラン238も極微量検出されている。

 ストロンチウムは個別の核種としては検出しておらず、ストロンチウムを含めたβ核種はすべてまとめて総β放射能として計測している。
 総β放射能は、この日以来2011年8月まで70回以上グアムのエアフィルターで極微量が検出されている。

 降下物としては、グアムでプルトニウム、ウラン、ストロンチウムは確認されていない。

 福島原発事故の後マスコミや専門家は、プルトニウムは重いので飛ばないと言っていたが、正確にはプルトニウムは飛ぶけれども(重いのに)落下しにくいということだろう。
 プルトニウムがマスコミや専門家が言うように重ければグアムにも降下しているはずだ。

 2011年3月28日に東電は福島原発敷地内の土壌でのプルトニウムの検出を発表した。
 量的にプルトニウム239、240は過去の大気圏内核実験時に落下したものと同等とみなせて、プルトニウム238はプルトニウム239、240との放射能比の比較で大き過ぎるので、今回の事故が原因の可能性があると東電は評価している。

 だが、グアムに3月19日プルトニウム239が飛来してることを考えれば、福島原発事故でプルトニウム239が原発敷地内のみならず日本国内に飛散したと考えられないほうが不思議だ。
 微量のプルトニウムであれば土中にこびりつけばさほど影響は無いだろうし、経口摂取での内部被爆は消化器系によって排泄されるため、あまり問題ではないようだ。
 問題はプルトニウムが大気中に飛散したことにあって、その微粒子を吸入しているとすれば、消化器系と比べると排泄機能が十分ではない呼吸器系に悪影響を与える可能性は捨て切れない。

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2012年01月05日

マスコミと日本のタブー

 リービングラスベガスが好きな医学生崩れの仕事仲間は、営業をしていて、医者に頭を下げねばならない。
 順調に医師国家資格をとっていれば、頭を下げられる側になっていただろうが、そうした逆転した立場から生じる劣等感みたいなのはまったく無かった。

 彼のような営業マンは、技術の助言や情報提供で医者に頼りにされることもあるし、腕の良い営業マンなら、場合によってはかなりの高給も期待できる。
 強い顧客という名の医者を捕まえれば、そのパイプを使って独立することもできる。
 また、彼は営業という仕事そのものも楽しんでいた。彼が医学部の人体解剖で陥ったニヒリズムが仕事では見えず、生き生きしていた。

 彼が楽しく仕事をしていた理由は他にもありそうだった。
 医学部在学中に経営していた塾がうまく行き、大手の法人に売却することができた。医師国家資格はとらなかったが、超難関医学部合格を利用して、一財産築いたようだ。
 奥さんも仕事をしていて、彼女は勤める会社では管理職で、いわゆるキャリアウーマンというやつだった。仕事柄、国内外のセレブとの交流もある。
 子供はいなかった。できる奥さんを持った男は、子供の作り方がよくわからないなどと真顔でふざけたことを言っていた。
 彼にとって仕事は趣味のようなものだ。仕事を趣味でやれるなら楽しいかもしれない。

 当時、彼の奥さんやら、マスコミの偉いさんの御子息から流れてきたのは、皇族の女性の妊娠計画だった。
 2つのルートから聞いたこの計画の概要はほぼ同じで、その後この計画通り妊娠し、出産した。
 おそらくマスコミほどこもこの計画を知っていたのだろうが、伝えなかった。

 伝えるほどのことでもないから、タブーとか、マスコミの隠蔽とか言うつもりはない。

posted by 春眠 at 10:15| Comment(0) | 政治・経済・社会・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月06日

米と放射能

 福島県は今秋収穫される米の放射能の全袋検査をする方針だという。
 ベルトコンベヤー式で検査するようだが、鉛による遮蔽が完璧にできるのかどうか、不安な点はあるもののやらないよりはいいだろう。
 去年、福島市や伊達市などで規制値の500Bq/kgを超える放射性セシウムが米から検出されたのを受けての措置となる。

 土壌から米へのセシウムの移行係数は0.1なので、政府が作付を許可した土壌汚染5000Bq/kg以下の水田であれば、理屈通りであれば、規制値以下の米となるはずだった。
 だが、移行係数以上に米がセシウムを吸収している結果が出ている。

 これには、水田の放射能汚染は一反ごとに違っていて、1つの田んぼでも細かく分けると放射能汚染濃度に濃淡が出てくるからという説がある。
 こういうこともあると思う。

 また、1万ベクレル以上土壌が放射能汚染された田んぼで実験的に米を作ってみると、そこではほぼ土壌汚染の放射能濃度と同じレベルの米ができたという噂もある。

 これらのことから理論値以上に米がセシウムを吸収しているという見方もできる。

 ひまわりがセシウムを大量に吸収するという話題がネットで騒がれてたとき、専門家は、ひまわりを水耕栽培すればセシウムの吸収は増えるだろうが、土中からでは無理だと否定していた。
 放射性物質が水に溶けている中に根があれば水といっしょに吸い込みやすいだろうが、土にこびりついたセシウムを植物の根が吸うのは無理だろう。

 ところで、水田は、当たり前だが、水をはっている。
 畑に比べれば水田は水耕栽培に近い栽培法になっている。
 あくまでも仮説にすぎないが、米を毎年放射能汚染された水田で作ることで、食用にできなくても、土壌の除染は進むということもあるのではないか。

posted by 春眠 at 10:24| Comment(0) | 原発・放射能・自然エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月08日

原発事故による死の灰拡散の政治的意味

 福島第一原発3号機の爆発は核爆発だったのではとの説が取り沙汰されている。

 その核爆発の説明に一理あるとしても、核爆発を起こすのは容易では無いと私は思っている。
 核爆発を起こす難しさは、核爆弾において起爆装置の開発が最も難しく、濃縮ウランはつくれても起爆装置が開発できないことで核爆弾がつくれないことからも明らかだ。

 3号機が核爆発を起こしたとするなら、起爆装置の開発は難しくなくなる。濃縮ウランを一度原発と同じ仕組みで臨界状態にさせた後にホウ素で臨界を止めさせ、水を抜けば核爆発を起こせることになる。
 原発が核爆弾と同じになってしまう。
 ただ、福島原発事故の問題は核爆発の有無だけでは済まない。核爆発の有無すら原発がはらむ大きな問題の一部にすぎない。

 ここで、反核運動が2つに分かれる理由を考えてみたい。
 原発も含めてすべての核は危険であるとの主張がある一方で、原発のような核の平和利用は許容すべきとの立場がある。
 原発は起爆装置開発の困難と低濃縮ウランにより爆弾にはならないのだから許容しようとしてきたのは理屈に合っているはずだった。だから、原発を問題視しない反核運動はあり得た。
 ところが、昨年の福島原発事故では、核爆発の有無は別にして、大量の死の灰が広範囲でばら撒かれてしまったので、原発を許容する(あえて無視した)立場の反核運動が霞んでしまった。
 原発も含めてすべての核を拒否する反核運動のほうが正しかったように見えてしまう。

 偶発的な核爆発で死の灰がばら撒かれたのならまだわかるが、核爆発の無い原発事故で死の灰が撒き散らされたとするなら、核の平和利用を許容してきた反核運動の意味が問われてしまう。
 事実、福島原発事故後に一部の反核運動家から原発を許してきたことに関して反省の弁が聞かれた。

 しかし、一部の反核運動家の反省の弁だけで済めばまだ良い。
 不謹慎かもしれないが、福島原発事故は権力者にとって核爆弾と原発はほぼ同じ意味を持つと認識させてしまったかもしれない。
 核爆弾が無くても、原発さえあれば、敵対する国に惨状をもたらすことができることを見せてしまった。
 運搬方法について議論の余地があるとしても、熱した核燃料を敵国に放置しておくだけで、敵国に多大な損害を与えることができるのだ。
 そして、このことがわかった以上、今後の核管理は原発も含めてもっと厳格にしなければならない。

posted by 春眠 at 13:54| Comment(0) | 原発・放射能・自然エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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