2011年10月11日

パルプ・フィクションと旧約聖書

 心正しき者の歩む道は、
    心悪しき者の利己と暴虐の不正によって包囲される。
 祝福されるべきは、愛と善意の名において暗黒の谷で弱き者を導く者。
 なぜなら、彼こそが兄弟を守護する者にして
    迷い子たちを見出す者だからだ。
 そして、おまえがわたしの兄弟を毒し、滅ぼそうとするとき、
    わたしはおまえに激しい怒りでもって大いなる復讐の鉄槌を下す。
 わたしがおまえに復讐の鉄槌を振り降ろすとき、
    おまえはわたしが主であることを知る。

 これは、映画「パルプ・フィクション」でサミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスが裏切り者を射殺する前にエゼキエル書25章17節だと言って聞かせた文章だ。
 しかし、この文章は本当のエゼキエル書25章17節ではない。以下に旧約聖書に書かれたエゼキエル書25章17節を記す。

 わたしは、彼らを憤りをもって懲らしめ、大いに復讐する。
 わたしが彼らに仇を報いるとき、
    彼らはわたしが主であることを知るようになる。

 本物と比べると映画の文章はかなり脚色されていて、相当ドラマチックな内容となっている。
 だが、パルプ・フィクション版のエゼキエル書25章17節が大幅に加筆・改稿されているとしても、旧約聖書の主旨には則っている。
 もともと旧約聖書には残酷なシーンが多く描かれている。神の命令によって村人全員を乳飲み子から家畜まで焼き殺すシーンや、村人が罪人を石で叩き殺すシーンなど、語弊があるかもしれないがホラー小説のような趣が旧約聖書にはある。
 パルプ・フィクションは悪徳と暴力を生々しく描いているのだが、どうもこれが聖書に書かれている人類が背負った原罪意識を現代的に具現化しているようにも見える。
 だからこそ、残酷なシーンの多いパルプ・フィクションであっても最終的には贖罪意識が具現化される。



posted by 春眠 at 07:55| 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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