2011年11月01日

哀しみの恋人たち

   男は妻と別れたあとロサンゼルスで酒に溺れていた。
   酒をもっと自由に飲みたいと思い、ラスベガスに行く。

   女はロサンゼルスで娼婦をしていた。
   でも、ヒモから自由になるためにラスベガスに逃げた。

   偶然の巡りあわせにより、男と女はラスベガスで出会う。
   アル中と娼婦のあり得ない恋愛が始まる。

   男と女は、女のアパートで暮らす。

   女は夜になると仕事に出かける。
   仕事って? もちろん娼婦としての仕事だ。
   男と寝てカネを貰う。

   男は一人酒を飲み続ける。女はそんな男を許し、いたわる。
   女は男が本気で愛してくれていると信じていたからだ。
   女は二人が厚い信頼の絆で結ばれていると信じて疑わない。

   夜の仕事を終えて、女は帰宅する。
   そこには信じられない光景が広がっていた。
   男は別の女と寝ていた。この女は娼婦だった。

   男に裏切られたとの思いが胸に込み上げてくる。
   女はすすり泣く。とてもやるせない気持ちになる。

   男は女の信頼を裏切ったと悟った。
   取り返しのつかないことをしてしまった。
   強烈な後悔の念に襲われる。
   でも、もう取り戻せない。男は部屋を出て行く。

 以上の話は、作家ジョン・オブライエンの代表作である「リービング・ラスベガス」という小説の粗筋だ。

 ジェフ・ベックの全曲インストゥルメンタル・アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」には、スキャッターブレインとダイヤモンドダストという名曲の他に「哀しみの恋人たち」というラブバラードの名曲がある。
 リービング・ラスベガスの二人は、まぎれもなく哀しみの恋人たちだった。

 このラブバラードの原題は、Cause we‘ve ended as loversという。直訳すると、二人は恋人として終わってしまったので、となる。
 この曲の展開を追って行くと、哀しみの恋人たち、よりも、二人は恋人として終わってしまったので、のほうがしっくり来る。
 もちろん、「哀しみの恋人たち」という日本語タイトルは宣伝コピーとしては秀逸だと思う。少なくともアルバムの日本語タイトル「ギター殺人者の凱旋」よりははるかによくできている。タイトルのせいもあったのだろうか、この曲が日本でシングルカットされたとき、ラジオからはこの曲の哀愁を帯びたギターのフレーズが繰り返し流された。

 哀しみの恋人たちは、狼の遠吠えのようなギターの断続的なむせび泣きから始まる。少しずつギターの音色は熱を帯びて来る。そして、中盤に入ると曲は急激な盛り上がりを見せ、泣き叫ぶような激しいギターの音色で覆い尽くされる。ギターが狂ったように泣き続ける。
 そして、最後に再び静けさを取り戻してしっとりと終える。
 この曲はダイヤモンドダストほど長い曲ではないが、同じくらい構成がダイナミックで、ドラマチックな仕上がりになっている。ギタリストのジェフ・ベックとプロデューサーのジョージ・マーティンの二人の才能が、火花のようにぶつかりあってできた曲だと容易に想像できる。

 ところで、冒頭の話に関して、恋愛の終わりを歌った曲で、なぜアル中と娼婦の恋の終わりなのか? もっと純粋な恋愛の終わりでもいいのではないか?
 いわゆる一般的な純粋の恋愛、悲恋なら、映画「ロミオとジュリエット」のテーマ曲でいい。
 このラブバラードは、過去に引きずられて今をうまく生きられない男女の愛の終わりにこそふさわしい。

 リービング・ラスベガスで娼婦が仕事としての性愛と信頼に基づく恋愛を分けていることに戸惑う。娼婦であったとしてもいいが、恋愛が始まったのなら娼婦をやめるべきではないか。
 女は自分の心の中では好きな男への愛情と生活費を稼ぐための乾いた愛とを分けている。言葉を変えれば、純愛とそうでない愛とを分けている。
 純愛はお互いの信頼関係が傷つけば終わる。だから、二人は恋人として終わってしまったので、となる。

 ちなみに、リービング・ラスベガスは、ジェフ・ベックの名曲「哀しみの恋人たち」が想像させるような、男女の別れ、だけでは終わらない。
 最後に女が再び男のもとに戻って来る、永遠の魂に慈しみを捧げるために。



posted by 春眠 at 07:24| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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