2012年01月08日

原発事故による死の灰拡散の政治的意味

 福島第一原発3号機の爆発は核爆発だったのではとの説が取り沙汰されている。

 その核爆発の説明に一理あるとしても、核爆発を起こすのは容易では無いと私は思っている。
 核爆発を起こす難しさは、核爆弾において起爆装置の開発が最も難しく、濃縮ウランはつくれても起爆装置が開発できないことで核爆弾がつくれないことからも明らかだ。

 3号機が核爆発を起こしたとするなら、起爆装置の開発は難しくなくなる。濃縮ウランを一度原発と同じ仕組みで臨界状態にさせた後にホウ素で臨界を止めさせ、水を抜けば核爆発を起こせることになる。
 原発が核爆弾と同じになってしまう。
 ただ、福島原発事故の問題は核爆発の有無だけでは済まない。核爆発の有無すら原発がはらむ大きな問題の一部にすぎない。

 ここで、反核運動が2つに分かれる理由を考えてみたい。
 原発も含めてすべての核は危険であるとの主張がある一方で、原発のような核の平和利用は許容すべきとの立場がある。
 原発は起爆装置開発の困難と低濃縮ウランにより爆弾にはならないのだから許容しようとしてきたのは理屈に合っているはずだった。だから、原発を問題視しない反核運動はあり得た。
 ところが、昨年の福島原発事故では、核爆発の有無は別にして、大量の死の灰が広範囲でばら撒かれてしまったので、原発を許容する(あえて無視した)立場の反核運動が霞んでしまった。
 原発も含めてすべての核を拒否する反核運動のほうが正しかったように見えてしまう。

 偶発的な核爆発で死の灰がばら撒かれたのならまだわかるが、核爆発の無い原発事故で死の灰が撒き散らされたとするなら、核の平和利用を許容してきた反核運動の意味が問われてしまう。
 事実、福島原発事故後に一部の反核運動家から原発を許してきたことに関して反省の弁が聞かれた。

 しかし、一部の反核運動家の反省の弁だけで済めばまだ良い。
 不謹慎かもしれないが、福島原発事故は権力者にとって核爆弾と原発はほぼ同じ意味を持つと認識させてしまったかもしれない。
 核爆弾が無くても、原発さえあれば、敵対する国に惨状をもたらすことができることを見せてしまった。
 運搬方法について議論の余地があるとしても、熱した核燃料を敵国に放置しておくだけで、敵国に多大な損害を与えることができるのだ。
 そして、このことがわかった以上、今後の核管理は原発も含めてもっと厳格にしなければならない。



posted by 春眠 at 13:54| Comment(0) | 原発・放射能・自然エネルギー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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