2011年12月25日

ハリウッドのデッドマン・ウォーキング

 映画「リービング・ラスベガス」が日本で公開されたとき、主演はショーン・ペンとスーザン・サランドンだと思っていた。

 ショーン・ペンはアル中の役をやるには線が細いような気がしたが、スーザン・サランドンは恋人の娼婦役にはピッタリだと思った。

 ところが、後でこれが誤りだとわかった。
 当たり前だが、リービング・ラスベガスの主演は、ニコラス・ケイジとエリザベス・シューだ。

 どうして勘違いしたかというと、両映画の公開時期が重なっていたのと両方とも精神的にボロボロになっていく人間の話ということがあり、自分の中でごっちゃになったようだ。

 スーザン・サランドンは娼婦どころか正反対の修道女の役をデッドマン・ウォーキングで演じていた。

 リービング・ラスベガスは、アル中の男の役はニコラス・ケイジで、この配役は合っていると思うが、ミッキー・ロークのほうがもっと合っていた。娼婦役は、エリザベス・シューよりはスーザン・サランドンのほうが合っている。

 ちなみに、同じ年のアカデミー賞で、ニコラス・ケイジは主演男優賞、スーザン・サランドンは主演女優賞をとっている。
 2人が同じ映画に出ていたらどうなっていただろうかとも思う。

 ところで、リービング・ラスベガスの映画化は、原作者のジョン・オブライエンが拳銃自殺したあとに速いスピードで進んだ。
 映画化権そのものは原作者の拳銃自殺の直前に契約が結ばれていたのだが、映画化権が認められたからといって、すぐに映画化されるわけではない。

 小説「リービング・ラスベガス」はまったく売れなかった。そんな小説の映画をハリウッドの巨大資本化した映画会社がすぐに撮るとも思えない。

 きっかけは、原作者の自殺だろう。
 原作者の人生と二重写しに見える映画を作ることで、宣伝で原作者の自殺をときに大袈裟に、ときにさりげなくアピールする。
 物語の中身よりも、作品の背後にあるセンセーショナリズムにハリウッドの心は動いたのだ。

 映画に投下された資金は回収されなければならない。センセーショナルな宣伝文句の無いような映画ではプロモーションが難しい。
 人の死をも消費し尽くそうとするハリウッドの資本の論理がよく現れた映画化だった。



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2011年11月04日

薄緑色のサマードレスを着た女の凄絶な純愛劇

 作家ジョン・オブライエンの代表作「リービング・ラスベガス」には二人の主人公がいる。
 一人はベンという飲んだくれの男で、もう一人はサラという売春で生計を立てている女だ。二人はラスベガスで出会い、恋に落ちる。
 二人がいっしょに暮らし始めてからある晩、サラの提案でギャンブルに行くことになった。

 そのときの彼女の身なりはこんな感じだ。
 薄緑色のサマードレスを着て、髪の毛は自然におろされている。両方の耳についているイヤリングは揃いのものでは無い。違うイヤリングを右耳と左耳につけている。

 さて、サマ−ドレスがどういうタイプのものかは詳しく書かれていないので、勝手に想像してみる。
 色は薄緑色ということだが、単色ではないだろう。薄緑が基調となって、他のもっと弱い色、たとえば、白かそれに準ずる色が使われてるはずだ。柄もついている。花柄でも水玉でも無いだろうが、草木をイメージした抽象的な柄が入っている。
 ノースリーブではなく、おそらくショートスリーブだろう。ワンピースのドレスのスカート部分には襞が入っていない。
 同じ一つの布地を頭からストンと被ったようなつくりになっていて、大きさは多少ゆったりしているが、身体の線が見えないということも無い。

 こう想像した理由を説明すると、サラは一色で描かれるほど生真面目な人間ではないから単色ではないし、人間性に豊かさが見られるのでドレスには柄が入っている。フォーマルなものでないから、尚更そう思える。
 ノースリーブでないと思えるのは、彼女はおそらく身体がそれなりにしっかりしていて、重みがあると思ったからだ。つまり、彼女の肩の周りは痩せている女性ほど骨ばっておらず、どちらかといえば肉付きのよい肩をしている。そういう肩を露出させるのはあまりエレガントではなく、ショートスリーブで少なくとも肩は隠したほうが良いはずだ。
 身体の線は崩れてはいないが、自慢するほど身体の線がきれいではない。そのへんを曖昧にするために余裕のあるドレスを着る。だが、断じてぶかぶかではない。肩の肉付きは良くても、下腹はたるんでおらず、引き締まっている。ウエストについてはさほど悲観していない
 襞が入っていないのは、彼女が普段の生活の中でドレスに襞を入れるほど夢見てはいないからだ。日々の現実をこなしていくだけの生活に、たとえデートであっても、襞はふさわしくない。

 恋人のベンは、サラのこの装いを趣味が良いと思った。男がそう判断したのなら、恋は盲目でなければ、女が衣服で自分の弱点をうまく隠し、良い面を強調しているはずで、このようなサマードレスなら趣味が良いと言えるのではないかと多少なりとも細部を詰めてみた。

 この装いで一番のポイントは、イヤリングだろう。サラは別々のイヤリングを左右の耳にぶら下げている。
 ベンは、彼女の別々のイヤリングが気に入ったようで、彼女に別々のイヤリングをつける女性が好きだと言う。
 そう思うのは彼がバランスを欠いているからだと小説では説明されている。バランスを欠いてる者にとっては、ときにバランスのあるものが憎くなる。バランスのとれていないものがとても愛しく、美しい。
 バランスのある一般の良識人であっても、ときにバランスを欠くことはあって、ベンと同じように思うこともたまにはあるかもしれない。だが、ベンはそれが常態化している。
 ところで、このとき娼婦のサラはベンに告げる、自分が仕事で客と寝るからといって、左右の耳で違うイヤリングをつけたような別の女を連れ込んで自分をばかみたいに見せるのだけはやめてくれと。
 サラは娼婦だけれども、これが男に要求する最低限の尊厳だった。
 ベンは、そんなことをするわけがないと確信していた。

 物語はサラがこの趣味の良い薄緑色のサマードレスを着てから、急展開を見せる。
 お互いが少しずつ見えて来る。二人が背負い込んだ人生の重み、試練がのし掛かって来る。

 サラには、ベンがただのよくいるアル中ではなくて、アルコールのせいで相当重い病にかかっていることがわかってくる。
 サラが心配して医者に行けと言っても、ベンは聞く耳を持たない。それどころか、ひどく機嫌を悪くする始末だった。
 そんなベンを許すようにサラは次のように言う。これはこの小説でも有名なセリフだ。

「あなたはそんなに具合が悪いのだから、あなたを生かし続ける唯一のものが、たぶんわたしなんだわ」

 この優しさに反抗するかのようにその晩、ベンは別の娼婦を家に呼ぶ。
 そこにサラが娼婦としての仕事を終えて帰って来る。
 サラの尊厳はずたずたに引き裂かれる。
 あとは、すすり泣く女と後悔の念に押し潰されて部屋を出て行く男の姿。

 ****************************

 その後、女は男に再び会う、娼婦でさえぞっとするような薄気味の悪い部屋で。
 男は二人が別れなければならない原因を作ったことで涙ながらに謝罪する。
 でも、女は男の謝罪を聞きに来たわけではない。彼女はひどく具合の悪い男を看病しに来たのだ。
 女は男を慰めながら、すべての謎が解けたと思った。
 そのときの彼女の思いは以下のように説明されている。

 わかったのは、彼女はこれからの人生で何度も何度も、毎分毎秒どういうふうに彼を愛し続けていくか。

 わかったと思ったとき、思いが伝わる間もなく、ドラマの幕は下がる。


 ちなみに、角川版の解説によれば、作者のジョン・オブライエンは、まったく売れなかったこの小説の映画化の件で2千ドルのオプション契約をファイナライズさせた2週間後に拳銃で頭を撃ち抜いて自殺したのだそうだ。享年34。
 殺風景な部屋に残されていたのは、ピザの箱と半分空になったウォッカのボトルだけだったという。

posted by 春眠 at 14:48| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月03日

野菜を鷲掴みで食べるギタリスト 後段

 スティービー・ワンダー作曲の名曲・迷信で話題となったのは、前奏の粘っこく強烈なビートを奏でるリフだ。
 迷信はもともとスティービーがギタリストのジェフ・ベックにプレゼントした曲だった。前奏のリフはギターをかなり意識している。
 スティービーの演奏では、そこをクラビネットというキーボードで弾いている。クラビネットはギターの音色の出せるキーボードで、ギターサウンドとまったく同じではないけれども、鍵盤を叩くとエレキギターの弦を引っかくような音が出せる。

 当時のジェフ・ベックはジョージ・マーティンと出会う前で、ベック・ボガート&アピスというちょっと斬新さの欠けるブルース・バンドを率いていた。それでも、このバンドでジェフが弾く迷信の前奏のリフは迫力がある。少々粗っぽいのが気になるが。
 有名な話でご存じの方も多いと思うが、迷信はジェフが最初にシングルカットするはずだったのにスティービーのほうが先にシングルを出してしまい、大ヒットさせてしまった。この件はジェフを怒らせ、その後お互いの間にしこりを残してしまった。

 スティービー・ワンダーは、ジェフ・ベックと会ったときの印象を自伝に記している。
 いっしょに食事をしたときにベジタリアンのジェフ・ベックは野菜を鷲掴みにして食べた。ジェフの言い分は、何でも自然であることが大事だということだったが、スティービーにはその食べ方がどこか野蛮に思えた。
 迷信の一件でのジェフの怒りについても、スティービーは野蛮な男が人の事情を理解せずに怒っているだけだと思っていた節がある。

 それでも、スティービーはお詫びとしてジェフ・ベックのソロ・アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」のために別の曲を用意した。
 それが、名曲「哀しみの恋人たち」だ。
 私は「哀しみの恋人たち」がスティービー・ワンダーの作曲だと聞いたときとても驚いた。ヨーロッパ映画の映画音楽として使われそうな、ニーノ・ロータでなくてもフランシス・レイあたりが作曲しそうな曲をソウルミュージックのスティービー・ワンダーが作曲したのだ。
 ただ、「哀しみの恋人たち」の原曲は、ブロウ・バイ・ブロウに収められた曲とはかなり受ける印象が違う。
 ある女性ソウル・シンガーが歌詞付きバージョンを歌っているのだが、この歌はジェフ・ベック・バージョンのようなドラマチックな展開がまったくなく、眠気を誘うほど退屈で単調な曲になっている。たとえるなら、お経を聞かされているような、いや、お経のほうがましかもしれないとさえ思えて来るほど盛り上がりに欠けている。
 その反面、ジェフ・ベック・バージョンには、ダイヤモンドの原石を優れた職人芸で徹底的に磨き上げて完成した最高級の宝石のような輝きがある。

 アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」は、どの曲にもアレンジに苦心の跡が見える。ロックギター音楽史上最高傑作の一つと称賛される名曲「哀しみの恋人たち」も、ポップ・ミュージックの名伯楽ジョージ・マーティンの大いなる影響のもとで洗練された。
 一つの才能ではなく、三つの類稀な才能が集まってできたのが「哀しみの恋人たち」であって、一人一人はとてつもない才能の持ち主だとしても、人は一人だけではうまく行かないようだ。

 ところで、迷信の一件で私が残念だと思うのは、もしジェフ・ベックがジョージ・マーティンとのアルバム作りを決めた後でスティービーから迷信を提供されていたらどうなっただろうかということだ。
 迷信はよくできた楽曲なので、スティービーが強硬にシングルにすることに反対しなければ、いずれにしても周囲の者たちがシングルにするように取り計らっただろう。
 ただ、私はジョージ・マーティンのプロデュースで迷信を聞いてみたかった。
 マ−ティンなら、前奏のリフをどうアレンジしたのだろうかと思ってしまう。マックス・ミドルトンにスティービー・ワンダーと同様にクラビネットを弾かせただろうか、それともブロウ・バイ・ブロウ全編でマックス・ミドルトンが弾いているエレクトリック・ピアノのフェンダーローズでやらせただろうか、あるいは、ジェフ・ベックが自分のバンドでやったようにギターにしたのか、といろいろな可能性を想像してしまう。
 でも、ブロウ・バイ・ブロウは迷信が無くても名アルバムと称賛されている。あまり欲張ってはいけないのかもしれない。

 ジェフ・ベックとスティービー・ワンダーは、お互い十分に大人になってから迷信を共演している。
 前奏のリフは、もちろん、ジェフ・ベックの定番ストラトキャスターだ。
 ところが、ブロウ・バイ・ブロウの哀しみの恋人たちでは、ジェフ・ベックは定番のストラトキャスターではなくて、テレキャスターを弾いている。
 哀しみの恋人たちは、遠くへ響き渡る、断続的で静かなむせび泣きから始まる。高音域を揺らしながら引き延ばすには、テレキャスターのほうが向いているので、そうしたのだろう。
 ただ、今はストラトキャスターを使って演奏していて、哀しみの恋人たちの始めのフレーズをトレモロで音を揺らしながら弾いている。
 私はその延び切れない泣き声を聞いて、そうじゃないといつも思う。

posted by 春眠 at 08:04| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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