2011年11月02日

野菜を鷲掴みで食べるギタリスト 前段

 そのころスティービー・ワンダーはまだ20代前半だったけれども、幼いころから音楽活動を続けていたため、芸歴は長かった。
 彼の不満はミュージシャンにとって最大の名誉であるグラミー賞を受賞できないことだった。グラミー賞の選考に影響力のある関係者にグラミーをとれない理由を聞いてみると音が黒過ぎるからと言われ、自分が愛するブラック・ミュージックを頭ごなしに否定されたように感じ、怒り心頭に発した。
 だが、このときスティービーは差別への抗議行動に出るのではなくて、それならあまり黒くない音楽を作ってやろうと考えた。戦略的にグラミー賞をとろうと計画を練った。
 スティービーが名誉欲のために自分の音楽性を捨てる覚悟で、白い音楽をあえて受け入れる決意をしたのか、はたまた自分の音楽を洗練させるという純粋な向上心によって楽曲作りに励んだのか、そのときの彼の真意はよくわからない。
 とにかく、スティービーはグラミー賞受賞を目指して楽曲作りに取り組む。そんな彼がグラミー賞受賞を目指して戦略的に作った曲が有名な迷信で、この曲は大ヒットした。その後、同様の目的で作られたサンシャインも大ヒットする。
 そして、スティービー・ワンダーは念願のグラミー賞受賞を果たす。

 私は、スティービーがグラミー賞関係者の言う通りに黒さを薄めた音楽を作ったと知ったとき、不思議な気持ちがした。なぜなら、私にとっては迷信もサンシャインも十分に黒く響いたからだ。どちらもソウルやR&Bのスピリットに溢れていて、どこが白っぽいのか最初はよく理解できなかった。
 だが、迷信以前のスティービー・ワンダーの曲を聞いてはじめて白っぽいブラック・ミュージックの意味がわかったような気がした。シングル曲・迷信(アルバムならトーキングブック)の前後でスティービー・ワンダーのサウンドは確かに大きく変化している。
 それまではR&Bを元気いっぱいに歌っているだけだったのに、迷信を境にアレンジに凝るようになり、サウンド全体のバランスを考え、楽曲の構成にも配慮するようになったのが歴然としている。

 スティービーの歌声には特徴があり、少し声が弾み過ぎている。だから、サンシャインのようなアップテンポ・バラードを一人で歌い切るとバラードらしさが打ち消されてしまい、ただの乗りの良い曲になってしまう危険性がある。スティービーが一人で、きみはぼくの太陽だ、と歌い上げても、あまり情感が湧いて来なかっただろう。
 サンシャインでは、バックコーラスの歌手に出だしのメロディーをソフトに歌わせている。男声が「きみはぼくの太陽だ」と歌うと、女声がそれに答えるように「あなたはわたしの心を奪ってしまった」と歌う。二人に恋歌のかけ合いをやらせている。そのあとにスティービーの弾んだ声が続き、二人をからかうように歌う。
 メローな男女の声のあとに続くスティービーの弾んだ声は、愛する二人をからかいながらも温かく見守る友人か何か(恋の解説者のような)のように聞ける。
 こうして、サンシャインはただの乗りの良いラブソングにはならず、ユニークで情感のあるバラードになった。

 名曲・迷信は、前奏のリフがロックギターのような音を出していて、黒人のソウルとは一味違った味付けになっている。スティービーが好きなブラスも盛り上がりを際立たせるために慎重に計算して抑制的に使われており、それが却ってブラスに一段と迫力を与えている。
 歌詞も捻りが利いている。タイトルが迷信というのだから、迷信を肯定するのかと思いきや、「迷信なんてものを信じたらあんたは苦しむぜ」と歌い、迷信を否定し、迷信を信じる者を憐れんでいる。
 このへんの皮肉っぽい歌詞も、シニカルなインテリ批評家には受けが良かったのだろう。

 どうも、スティービーの言われた音が黒過ぎろというのは、構築力が無く、構想を十分に練った跡も無く、構成が理路整然としていない、という意味がありそうだ。
 もし私の見解が正しければ、やはり音が黒過ぎるという言い方は有色人種への差別だろう。有色人種は感覚的かつ感情的で、理性を欠いていると言われたようなものなのだ。
 今にして思えば、「黒っぽい音」というのは白人インテリ批評家たちの間だけで使われていた隠語だったのかもしれない。
 ただ、インテリ批評家の功罪はここでは脇に置く。スティービーの名曲・迷信に纏わる迷信でない事実にフォーカスしたい。

(後段に続く)



posted by 春眠 at 07:49| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月01日

哀しみの恋人たち

   男は妻と別れたあとロサンゼルスで酒に溺れていた。
   酒をもっと自由に飲みたいと思い、ラスベガスに行く。

   女はロサンゼルスで娼婦をしていた。
   でも、ヒモから自由になるためにラスベガスに逃げた。

   偶然の巡りあわせにより、男と女はラスベガスで出会う。
   アル中と娼婦のあり得ない恋愛が始まる。

   男と女は、女のアパートで暮らす。

   女は夜になると仕事に出かける。
   仕事って? もちろん娼婦としての仕事だ。
   男と寝てカネを貰う。

   男は一人酒を飲み続ける。女はそんな男を許し、いたわる。
   女は男が本気で愛してくれていると信じていたからだ。
   女は二人が厚い信頼の絆で結ばれていると信じて疑わない。

   夜の仕事を終えて、女は帰宅する。
   そこには信じられない光景が広がっていた。
   男は別の女と寝ていた。この女は娼婦だった。

   男に裏切られたとの思いが胸に込み上げてくる。
   女はすすり泣く。とてもやるせない気持ちになる。

   男は女の信頼を裏切ったと悟った。
   取り返しのつかないことをしてしまった。
   強烈な後悔の念に襲われる。
   でも、もう取り戻せない。男は部屋を出て行く。

 以上の話は、作家ジョン・オブライエンの代表作である「リービング・ラスベガス」という小説の粗筋だ。

 ジェフ・ベックの全曲インストゥルメンタル・アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」には、スキャッターブレインとダイヤモンドダストという名曲の他に「哀しみの恋人たち」というラブバラードの名曲がある。
 リービング・ラスベガスの二人は、まぎれもなく哀しみの恋人たちだった。

 このラブバラードの原題は、Cause we‘ve ended as loversという。直訳すると、二人は恋人として終わってしまったので、となる。
 この曲の展開を追って行くと、哀しみの恋人たち、よりも、二人は恋人として終わってしまったので、のほうがしっくり来る。
 もちろん、「哀しみの恋人たち」という日本語タイトルは宣伝コピーとしては秀逸だと思う。少なくともアルバムの日本語タイトル「ギター殺人者の凱旋」よりははるかによくできている。タイトルのせいもあったのだろうか、この曲が日本でシングルカットされたとき、ラジオからはこの曲の哀愁を帯びたギターのフレーズが繰り返し流された。

 哀しみの恋人たちは、狼の遠吠えのようなギターの断続的なむせび泣きから始まる。少しずつギターの音色は熱を帯びて来る。そして、中盤に入ると曲は急激な盛り上がりを見せ、泣き叫ぶような激しいギターの音色で覆い尽くされる。ギターが狂ったように泣き続ける。
 そして、最後に再び静けさを取り戻してしっとりと終える。
 この曲はダイヤモンドダストほど長い曲ではないが、同じくらい構成がダイナミックで、ドラマチックな仕上がりになっている。ギタリストのジェフ・ベックとプロデューサーのジョージ・マーティンの二人の才能が、火花のようにぶつかりあってできた曲だと容易に想像できる。

 ところで、冒頭の話に関して、恋愛の終わりを歌った曲で、なぜアル中と娼婦の恋の終わりなのか? もっと純粋な恋愛の終わりでもいいのではないか?
 いわゆる一般的な純粋の恋愛、悲恋なら、映画「ロミオとジュリエット」のテーマ曲でいい。
 このラブバラードは、過去に引きずられて今をうまく生きられない男女の愛の終わりにこそふさわしい。

 リービング・ラスベガスで娼婦が仕事としての性愛と信頼に基づく恋愛を分けていることに戸惑う。娼婦であったとしてもいいが、恋愛が始まったのなら娼婦をやめるべきではないか。
 女は自分の心の中では好きな男への愛情と生活費を稼ぐための乾いた愛とを分けている。言葉を変えれば、純愛とそうでない愛とを分けている。
 純愛はお互いの信頼関係が傷つけば終わる。だから、二人は恋人として終わってしまったので、となる。

 ちなみに、リービング・ラスベガスは、ジェフ・ベックの名曲「哀しみの恋人たち」が想像させるような、男女の別れ、だけでは終わらない。
 最後に女が再び男のもとに戻って来る、永遠の魂に慈しみを捧げるために。

posted by 春眠 at 07:24| Comment(0) | 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月24日

孤高のすすり泣き ブロウ・バイ・ブロウ

 ジェフ・ベックというロック・ギタリストはよく孤高のギタリストと呼ばれる。商業性に拘ることなく自分の信じるギターの道を歩んでいるところや、コンサートで見せる彼の風貌がどことなく群れから離れた狼のように見えるところがそう呼ばせるのだと思う。
 狼は夜になると小高い丘の上に駆け上り、そこで顎を上げて吠え声を響き渡らせる。それは恐怖を呼び覚ます吠え声のようにも、悲しいすすり泣きのようにも聞こえる。
 ジェフ・ベックがギターの求道者のように見られたのは、おそらくアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」からだろう。このアルバムはジェフ・ベックのギター人生とギターテクニックの真髄が込められていて、ジェフ・ベックにとってのみならずロックギター・ミュージックにとっての最高傑作と言ってもいいほどの優れた出来栄えになっている。

 アルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」は発売当初日本語タイトルが「ギター殺人者の凱旋」とつけられた。随分大仰で物騒なタイトルだし、あまりうまいネーミングだとは思わないが、このアルバムの本質は掴んでいる。
 英語のblow by blowは「一打ずつ詳細に」というも意味がある。一打でさえも漏らさずに伝えるというような文脈で使われる。ボクシングのラジオ中継などで実況が一打でも手を抜かずに伝えるというような使い方だろう。
 ただ、このアルバムでは、慣用句として解釈するよりも、字面通りに解釈したほうがしっくり来る。次々と繰り出されるブロウ(パンチ)という意味で理解したい。ボクシングの試合におけるスタンディングでの打ち合いを想像していただいたらいいと思う。
 次々と繰り出されるパンチをそのまま浴び続けたら人は死んでしまう。このアルバムでは、ギター曲がそのように繰り出されて行くので、ジェフ・ベックはギター殺人者に喩えられる。

 ジェフ・ベック最大のヒットアルバムとなった「ブロウ・バイ・ブロウ」の成功の主だった要因は、プロデューサーにビートルズを大成功に導いたジョージ・マーティンを起用したことだろう。
 ジョージ・マーティンはクラシック音楽の正規の教育を受けていて、アレンジの引出しがとても多い。ビートルズが成功したのもその陰にはプロデューサーのジョージ・マーティンがいたからだと言われる。
 ビートルズがギターを弾きながら口ずさむ曲を原曲として、そこから発展させてまともな商用の曲にまで仕上げられたのはマーティンの力によるところが大きかった。また、ビートルズのほうも、クラシック音楽の素養のあるジョージ・マーティンから積極的に学び、単なる思いつきのメロディーをしっかりとした楽曲にまとめ上げていく術を学んだ。
 ジョージ・マ−ティンはクラシックの素養があるだけにストリングスのアレンジが実にうまい。ビートルズの有名なバラードであるイエスタディの成功は、マーティンのストリングス・アレンジの賜物と言っても言い過ぎではない。
 私はイエスタディのストリングス・アレンジは情緒に流され過ぎているのであまり好きではない。マーティンの優れたアレンジ能力が発揮されたのはエリナー・リグビーにおいてだと思っている。
 イエスタディと違ってエリナー・リグビーのストリングスには緊張感があり、メロディアスな曲を情緒に流されることなく引き締めている。エリナー・リグビーでは、ストリングスは単なる伴奏ではなく、ビートルズの歌・演奏と競い合い、ぶつかり合っている。それがとてもスリリングに聞こえる。それは、たとえば、クラシックの協奏曲やソナタのような作りに近い。

 ジョージ・マーティンがエリナー・リグビーで聞かせてくれた緊張感のあるストリングス・アレンジは、ジェフ・ベックのアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」でも施されている。
 それは2曲あり、一つがスキャッターブレインで、もう一つがダイヤモンドダストだ。
 スキャッターブレインは、ロックというよりはどことなくパガニーニのバイオリン独奏曲のギター版のような作りになっている。技巧の要求される速弾きが続き、アップテンポな曲であるにもかかわらず、どこか悲しい、あのバガニーニの曲を連想させる。
 スキャッターブレインでは、曲の盛り上がるところをギターとストリングスとで分け合い、マックス・ミドルトンの弾くエレクトリック・ピアノがときにストリングスと、ときにギターと協奏というより、競奏という字を当てたほうがいいようなスリリングな演奏を聞かせてくれる。まさにスタンディングで連打を浴びせるボクシングのような気分にさせる。だから、ブロウ・バイ・ブロウ。

 もう1曲のダイヤモンドダストは、このアルバムの最後を飾る曲で、スキャッターブレインと違ってバラード調のメロディアスな曲となっている。この曲は原曲を貰ってからかなり時間をかけてアレンジされたようで、構成の優れたドラマチックな曲となっている。この曲を聞いているだけで誰もがそれぞれのドラマを心に思い浮かべる。
 この曲では、ジェフ・ベックのギターのすすり泣きに、ストリングスの雄大でゆったりとした響きが包み被さるように乗っていく、孤独で悲しい者を雄大な何かが包み込んでいくように。
 日本ではテレビ・ドラマのBGMとして使われたことがあった。どういうドラマかといえば、抽象的になるが、とてもやるせなくて、どうしようもなくて、それでも辛い思いを内面に止めて表に出すことなく生きていく人々の悲しいストーリーといったところだ。
 ドラマの舞台が、ダイヤモンドダストが見られる北国だったかは覚えていない。
 ただ、この名曲を聞くのに北国である必要はない。北国でなくても、晩秋から冬にかけて聞くにはぴったりの曲である。

posted by 春眠 at 07:56| 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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