2011年10月13日

パルプ・フィクションで問題を解決する業者

 映画「パルプ・フィクション」は残忍なシーンが多いが、暴発した弾丸が後部座席の男に命中し、シートが肉片と血で染まるところほど酷く、そしてどこか諧謔味のあるシーンは無いだろう。
 この惨状をどうしたらいいか困り果てた2人の悪党、ビンセントとジュールスを助けに来るのが、ウルフだ。

 やって来たウルフは何事もテキパキと手際よく進める、いかにもやり手の悪徳問題解決屋に見えるのだが、現場に到着するとまず、落ち着き払ってコーヒーを要求する。2人の悪党にとっては差し迫った状況なのにウルフは何とも言いようのない存在感でもって、その場をいきなりコーヒータイムにしてしまう。

 ウルフは、コーヒーカップを片手に血みどろの後部座席を観察する。まるで機械修理に来た修理工のように、あるいは経営立て直しに来たコンサルタントのように持ち前の観察眼と洞察力で状況を確認する。たちどころに解決策が浮かんでしまったようで、次々と2人の悪党に指示を出す。

 悪党どもはウルフの指示通りに行動するのだが、ジョン・トラボルタ演じるビンセントはウルフの命令形を使った指示が不満なようで、指示するときは「プリーズ」を付けてくれと頼む。
 それを聞いて、ウルフは冷静ながらも敢然とビンセントを戒める。ここには「プリーズ」を言うために来たのではなくてトラブルの解決のために来たのだと。そのときのウルフの、ビンセントに対して呆れたように叱責する態度がたまらなくいい。

 ウルフの現場到着から問題解決までの行動は、悪徳業者というよりはできるビジネスマンそのもので、紳士然として振る舞い、断固として問題に取り組む姿勢には、ある種の爽快感さえも覚える。彼の確立した仕事のスタイルとそれを貫き通す意思の強さにも妙に納得させられる。仕事のできる男・ウルフは、くせ者の多いこの映画においてとりわけ異彩を放っていた。

 この悪徳問題解決屋・ウルフを、その優れた演技力でもって、いかにもそれらしく演じたのは、もちろん、名優ハーヴェイ・カイテルである。



posted by 春眠 at 08:44| 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

パルプ・フィクションと旧約聖書

 心正しき者の歩む道は、
    心悪しき者の利己と暴虐の不正によって包囲される。
 祝福されるべきは、愛と善意の名において暗黒の谷で弱き者を導く者。
 なぜなら、彼こそが兄弟を守護する者にして
    迷い子たちを見出す者だからだ。
 そして、おまえがわたしの兄弟を毒し、滅ぼそうとするとき、
    わたしはおまえに激しい怒りでもって大いなる復讐の鉄槌を下す。
 わたしがおまえに復讐の鉄槌を振り降ろすとき、
    おまえはわたしが主であることを知る。

 これは、映画「パルプ・フィクション」でサミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスが裏切り者を射殺する前にエゼキエル書25章17節だと言って聞かせた文章だ。
 しかし、この文章は本当のエゼキエル書25章17節ではない。以下に旧約聖書に書かれたエゼキエル書25章17節を記す。

 わたしは、彼らを憤りをもって懲らしめ、大いに復讐する。
 わたしが彼らに仇を報いるとき、
    彼らはわたしが主であることを知るようになる。

 本物と比べると映画の文章はかなり脚色されていて、相当ドラマチックな内容となっている。
 だが、パルプ・フィクション版のエゼキエル書25章17節が大幅に加筆・改稿されているとしても、旧約聖書の主旨には則っている。
 もともと旧約聖書には残酷なシーンが多く描かれている。神の命令によって村人全員を乳飲み子から家畜まで焼き殺すシーンや、村人が罪人を石で叩き殺すシーンなど、語弊があるかもしれないがホラー小説のような趣が旧約聖書にはある。
 パルプ・フィクションは悪徳と暴力を生々しく描いているのだが、どうもこれが聖書に書かれている人類が背負った原罪意識を現代的に具現化しているようにも見える。
 だからこそ、残酷なシーンの多いパルプ・フィクションであっても最終的には贖罪意識が具現化される。

posted by 春眠 at 07:55| 映画・音楽・文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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